届かない距離で
賢者の塔のミミの机には、いつも本が山積みになっている。
棚に入りきらないほどの本を持っている……というわけではない。彼女は立派な本棚をふたつ持っている。が、そのどちらも、上端の一段だけはがらりと空いているのである。
「ミミたん。どうしてその本、棚に入れないの?」
冒険の合間に賢者の塔へ戻ってきて、ミミの机に積まれていた本を見事にひっくり返したカルメロが言う。
「棚、空いてるよね?」
指さされるままに棚を見上げ、ミミはぽつりと言った。
「……確かに、空いているのです」
前にも、こんな会話をしたことがあった。
まだミミが『運命の双六亭』の冒険者として活動していた頃の話だ。その頃もミミは今と同じように机の上に本を山積みにしていたし、宿の親父に頼んで借り受けた古い本棚の上端は空いていた。
「ちょっと、ひっくり返さないで欲しいのです!」
通りすがりに、何度目かに本を崩されて、ミミは相手に抗議の声を上げた。その相手――アップルは不快そうに首を廻らせると、眼帯に隠れていないほうの目を眇めてミミを見下ろした。
「何で棚に入れない。上が空いてるだろうが」
アップルの言い分は至極もっともである。けれど、あの頃のミミはまだまだ子供だった。いろんな意味で。
「何度もつまずくアップルが悪いのですよ」
そう、憎まれ口をきいた。
今にして思えば、共同の場所を散らかしているミミにだって落ち度はあったのだ。アップルは眼帯をしていたのだから、距離感だってつかみにくかっただろう。そんなことにも思い当たれないくらいに、ミミは物を知らなかったのだ。棚に入りきらないほどたくさんの本を持って、すべて読んでいたのに。
「こんなに散らかしていたら、親父と娘にも迷惑だろう」
アップルは転がった一冊の本――ミミが両手をつかわないと広げられない分厚さのそれをひょいと片手でつかむと、無造作に空いている本棚の上段へ投げ入れた。どさりと音がして、続いて乾いた埃が舞った。
「あっ、止めて欲しいのです」
本を取り戻そうと、ミミは棚に手を伸ばした。けれど。
「何でだ」
「……届かないから」
とうとうミミは観念した。
「は?」
「手が、届かないのです!」
子供のミミの身長では、棚の上段には手が届かない。取り出すのにも、片付けるのにも時間がかかってしまう。
それを認めるのは悔しかった。普段からかっているアップルが相手だから尚更。きっと、彼はここぞとばかりに自分のことを「これだからガキは」と馬鹿にするだろう。
「そうか。それはたいへんだな」
返ってきたのは、ミミの予想とは違った穏やかな反応だった。
「だったら、ミミが入り用な時に俺が出してやるよ。そうすれば親父や娘も片付けやすいだろうし、俺も本を崩さなくてすむ」
きょとんと見上げるだけのミミに、アップルは口の端だけで笑ってみせた。
言葉通り、アップルはそれ以降、ミミが本の出し入れをするのを手伝ってくれた。面倒そうな素振りを見せることはあったが、彼は一度も断ったり後回しにしたことはなかった。
ミミの机の上は常にすっきりと片付いて、論文も今まで以上に捗るようになった。卒業論文が完成すれば、ミミが冒険者を続ける理由はなくなる。けれど、今、冒険者を止めるのは寂しい。
そう思い悩んでいる最中に、事件は起こった。
とある依頼の途中で、アリョーナとアップルが命を落としたのである。
二人の葬儀が終わったあと、ミミたち遺された面々はジェレミーから「冒険者を続ける意志はあるか」と問いかけられた。仲間たちが続ける旨を即答する中で、ミミはひとり、パーティを抜けることを選んだ。
論文が完成して、冒険者を続ける理由がなくなっていたこともある。そして、ミミは、自分の手がいってしまった仲間たちに届かないことがつらくなっていたのだ。今までだったら伸ばした手はアップルに、アリョーナに、サーラに、フィリップに届いた。けれど、もう届かない。どれだけ背伸びしても本棚の上段に届かないのとおんなじに。
心にも、本棚と同じ隙間が出来た。埋めるのを手伝ってくれていたアップルはもういない。
「……届かないのですよ」
そんな心の表れのように、賢者の塔のミミの立派な書棚の上段は、今もがらりと空いているのだった。
「そっかあ。背が伸びるまでの我慢だぁね♪」
ふぅんと、棚とミミとを見比べたカルメロが、へらんとした笑顔を見せる。
時間が経って背が伸びれば、きっと棚は埋まるだろう。その時には、胸に空いた隙間も新たに学んだ知識や新しい出会いが埋めてくれる。
「はい、そうなのです」
だから今だけ我慢です、そう言ってミミはカルメロに笑い返した。
原作:リプレイ『運命の双六亭』 柚子様
テンプレート:「小説htmlの小人さん」(改訂)
画像:「NOION」